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2012年1月8日 - 2012年1月14日

だから記者は「はじっこ」を目指す

 この冬、一時帰国をした際に、仙台で東北地方のブロック紙「河北新報」の記者Oさんにお会いしました。20年も前になりますが、私が山形に新人記者として赴任した際、一緒に警察署回りをしました。河北新報を含めた他社には、特ダネを抜かれた苦い思い出しかない私ではありましたが、粘り強い取材姿勢に敬意を持っていました。

山形を離れてからは連絡もとらなくなっていましたが、プノンペンで知り合った方の友人であることがわり、奇跡的にもそんな懐かしい人に会えることになったのです。

 新人時代から20年、私もOさんも、それぞれ「取材」の現場にいます。そのことの幸運をかみしめつつ、震災についてもいろいろと聞きました。河北新報は、今回の震災で被災地のメディアとして、全国紙とはまた違う役割を担いました。自身もまた、被災者であるからです。

 昨年4月に仙台を訪れた際、河北新報社に飛び込みで伺いました。震災当日の号外と、震災翌日の紙面を分けていただきたかったからです。得体のしれない私にも、営業担当の方が丁寧に接してくださり、話を聞かせてくれました。

社内を案内されたとき、一枚の手紙が掲示されているのが目にとまりました。読者からの手紙でした。手紙には、震災翌日に届けられた河北新報の新聞に、涙が出るほど励まされた、とありました。記者たちの奮闘も想像できますし、印刷、配送、配達、すべてにかかわった人たちの思いが、その新聞に詰まっていたのでしょう。

被災者を励ましたのは、ニュースの内容というよりも、新聞という「存在」でした。被災し、絶望のふちに落とされた自分たちも、こうしてだれかとつながっている。新聞が手渡されたことで購読者のみなさんはそう思ったのでしょう。その日の新聞は、ページ数は少なくとも、ずっしりと重みを感じさせるものだったに違いありません。河北新報の方も、「紙媒体である新聞の意味をもう一度考え直させられた」とおっしゃっていました。

それから10か月近くがたちました。仙台の町には震災の傷あとがすっかりなくなったように見えました。少なくとも、ちょっと見ただけでは分かりませんでした。でも、少し足を伸ばして石巻市へ行くと、そこには荒涼とした被災地の実態がありました。

O記者は現在、仙台を拠点に仕事をしていますが、「福島の支局に赴任したいと希望を出し続けている」と言いました。かつて、福島に勤務したことがあるO記者は、「震災前の福島を知る自分だからこそ、できる仕事がある」と言っていました。そして、「まん中(仙台)にいたんじゃ見えないことがたくさんある。自分にはそれが分かるからはがゆいんだ」とも。

全国紙にしろ、ブロック紙にしろ、テレビにしろ、あるいは地方紙にしろ、それぞれの組織の「真ん中」にいたのでは見えないことがある。掬いあげなくてはならない、伝えなくてはならない現実や、矛盾や、悲しみや憤りは、いつも社会の「はじっこ」にある。だから記者ははじっこを目指すんだーー。O記者とそんな会話で盛り上がりました。

「はじっこ」にはいろんな意味があります。地理的にはじっこ、社会構造のはじっこ、一人ひとりの心の中のはじっこ。でも、はじっこに立ったことがある人なら分かる。それは、はじっこであると同時に、先端です。要は、自分の視線がどちらを向いているか、ということだと思います。

O記者とこんな会話をしながら、40代も半ばになった二人がこんな青臭い話をできるなんてうれしいな、と思いました。記者という職業がそうさせるのか、いや、新人時代に苦労をともにした同期という独特の連帯感がそうさせるのか。今年は、記者職を始めて20年。忘れたくない思いを、極寒の被災地で取り戻しました。

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